その①「2周年アピール行動」に寄せられた家族・原告の声(2021年6月)
家族訴訟原告であった私は、次のような質問を受けました 原告番号25番
●らい予防法が廃止され、国の隔離政策を誤りだと認める判決、元患者の家族たちへの差別被害を認める判決が出てもなお、元患者が家族にいることを明かすことができないと思う理由をお聞かせください。
・国が糾弾されて、総理大臣の謝罪を受け、三省(厚労省・法務省・文科省)が判決で指摘された施策に真摯に取り組みつつあることは、喜びであり、家族の名誉が回復されたと思っています。
・しかし残念ながら肝心の国民の意識の変化は未だ感じられない。この時点で開き直って、家族原告の潔白性を主張しても、直ちに国民から受け入れられることにはならないし、偏見を払拭できない、国民とまっとうな議論を交わせる場が与えられる保証もない…と思うので、本名を名乗り出ることは、大きな冒険です。
・また、このことは私だけの問題ではなく、家族を守ることなので、全く関係がない子や孫に迷惑がかかるリスクを避けたいと思う気持ちが強く、本名が名のれない。
●正しい知識がないまま深く広がっていったハンセン病に対する偏見を二度と繰り返さないためには、どのようなことが必要だと思いまか。
・国の過去の施策の反省から、人権侵害があると認識したときには、各人が自分の影響力を信じ、積極的に発言し行動することが求められています。参照:米国に於ける警察官による黒人抹殺事件を周りにいた者は傍観していた。
・いま市民の間では、国の施策(無らい県運動・強制隔離政策)をただ傍観していたことが、加害者側にあったと自戒し、元患者とその家族の法廷闘争やその後の活動を支援してくれている方が沢山います。
・社会への関与(発言・行動)の必要性を自覚し、不作為は罪だと認識された市民は、過去のハンセン病の国の施策を今一度見つめ直して頂きたいと思います。
・いま関係者の知恵を結集して、中学生向け教材を作成しています。今回は厚生労働省の責任編集ですが、来年には法務省や文部科学省も加わって 優れモノが完成する予定です。
・学習した中学生がその教材を自宅に持ち帰り、家族でハンセン病について語り合える場をもって頂けることに私は期待をしています。このことを欠いては、近年中には国民の意識に大きな変化はないと思っています。
・先の家族訴訟の判決には、“近隣住民の回覧版を利用して広報・学習するように“と判示がありましたが、地道な行動の積み重ねるしか、術はないと思います。
家族はバラバラになりました 東京都 70代
子供達に昔の自分の事など言うと昔と今は違うと言われて相手にしてくれ無いが、確かに時代の流れは早過ぎて私達の年代は時には付いて行けないが、でもやはり昔の事、生まれ故郷新潟で生まれ育った時代は忘れられ無いです。
兄3人姉2人は一番大変な時代の中の生活を経験して来た。そんな中ハンセン病事件に上の兄2人が巻き込まれて本当に辛い事を後で知らされた事実でした。
私の場合兄の一人が東京に永年住んで居て、私も結婚して東京暮らしなのに何十年会えませんでした。会えないまま月日が過ぎて仕舞いました。本当に残念で仕方有りません。
今は、ハンセン病家族のことを思う会と弁護団が私達家族の励みになり、私達が出来ない国との交渉をし、過ちを正す方向で協力し全力で闘ってくださっています。皆様には感謝申し上げます。
母の無念ははかり知れません 原告番号106の娘 (1)
2019年6月28日、ハンセン病家族訴訟勝訴! 母はこの判決を聞くことなく3年前、5月18日に亡くなりました。母の88年の生涯は、30才の頃、父のハンセン病発病から世間の目がちがってきたのがわかりました。かげ口、あわれみ、きたない物を見るようなバカにしたような態度、人間不信になるなか父の農作業中の焼死、突然の事故死でした。年老いた夫の両親の介護があり土地から離れることも叶わず、60年近く耐えて生きぬいた生涯でした。
今、考えるのはハンセン病患者や家族への差別、偏見のない世の中だったら母の生涯はどうだったかなということです。コツコツ地道な商売(100円の自家菜園野菜を売っていました)で冗談話が好きな明るい母でした。歌や踊りも好きでした。(ハンセン病に対する偏見・差別がなければ)人生を楽しく過ごしていたのではないか? 現実は、生きがいのない人生を歩むことになりました。母の無念は、はかり知れません。それでも天命を生きぬいた母の人生を子や孫に誇りたいと思っています。
そして、次世代の若者たちが恐れることなく抵抗なくハンセン病と言える、あらゆる差別や偏見のない人間関係の社会をと願っています。
家族団欒のない我が家だった 原告番号106の娘 (2)
わたしは、らい病ということばにとても抵抗があり口に出すことができません。国辱病と言われ、人権無視の扱いを受けたイメージです。20年前の国賠訴訟熊本判決から私の中で、らい病がハンセン病と病名が変わり病気の正しい知識を学習したように思います。それまで「らい病」という不治の病でいつか再発すると思い込んでいたので知るのがこわくて詳しく知ろうと思いませんでした。やっと未来をふつうに考えるようになり、ハンセン病も少し抵抗がありますが、口にして言えます。「らい病」と「ハンセン病」の暗い闇と明るい兆しのマイナス方向とプラス方向の大きなちがいがあります。そんな気持ちで色紙に書いてほしい言葉を書きました。
・らい病の家の子と言われ、心の奥にしまい込んだ言葉は根が深い。
・「らい病」「ハンセン病」当事者家族には、言ってはいけない思いやりを。
・「らい病」の昔の知識のままで、知られるのを恐れている家族の方々もいます。やさしい
善の政治の力で救ってください。
・幼い頃の家族の思い出は、笑っている場面が無い、中学の頃は家を出ることばかり考えていた。
・家族団欒、きょうだい仲良く、楽しいわが家、それがまったく無い家だった。みんな気持ちがバラバラ、現実から逃げていた。
戦争とハンセン病事件は国のあやまち 新潟県 60代男性
自分は8人兄妹の末っ子で生まれた。現在69才。何故か家を継いで、先祖を守る事になった。家族3人がハンセン病に罹患し、上の兄は療養所で亡くなり、下の兄は、社会で生活したが、将来に不安があり、1年半前に再入所している。
自分は、上の兄とは20才違いなので、大変可愛いがられた。自分の時代の子供の頃は、遊び食べる寝る。なに不自由無く育った。
15~16才頃になって、やっと、母から、ハンセン病の話を聞かされた。言葉が出なかった。今のNHKの朝ドラマだとすれば、涙涙のシーンの連続だ。村八分白い目自殺に追い込まれた。現在では想像もつかない事かも。自分の子供達には、話しておきました。戦争とハンセン病事件は国のあやまちだった事を。
祖母に会いに行った思い出から半世紀 神奈川県 50代女性
覚えているのは、幼い頃、母とその武蔵野にある療養所へ、毎月一回、祖母に会いに行ったこと。そこには沢山の方々がひっそりと暮らしていて、「不自由な方をじっと見てはいけないよ」と言われて、でも私は、その方達を怖いと感じた事は一度もなく、むしろ可愛いがって頂き、ほんのりとした優しさを沢山感じて帰って来ました。
時は過ぎ、半世紀近く経った昨年の秋、この関係のイベントにおいて、音楽ボランティアで演奏の機会を頂きました。ものすごい使命感を感じたと共に、嬉しく思いました。ハンセン病の方たちの思いを込めて演奏出来たことは、幼い頃、可愛いがって頂いた恩返しが、少し出来たように思います。家族の会に感謝しております。
家族を追い詰めるハンセン病の影 静岡県 80代女性
私の夫は、ハンセン病療養所出身者であり、退所後、私と結婚して子供一人に恵まれました。夫婦生活の上で夫がハンセン病であったことは、もちろん隠し通し続けましたので子供にも父親がハンセン病回復者であることは伝えていませんでした。
夫の死後、遺族として補償金を受け取る機会があり、取得したおかげで何とか生活してこられたのですが、以前のような子供との会話ができなくなりました。1年前、家族訴訟の補償金を私は取得できたのですが、子供はハンセン病の話を嫌い、「二度とハンセン病の話はするな」と言われてしまい、現在に至るまで申請していません。恐らく、父親がハンセン病であったことが知られたために世間から中傷されたと推測していますが、何も言ってくれず、疎遠になるばかりです。
私がこの世を去ったあと息子の生活が心配です。今も苦しい生活をしていますので。これ程までに家族を追い詰めるハンセン病の影、二度と同じ過ちを繰り返してほしくない。国が決めたことに国民は従い、差別することを国民は、当然のように思うのでしょうか?
これからもこの国で同じことが繰り替えされないよう願うばかりです。
改革無くして変化無し! FK 50代 熊本
私は家族として、やっと今まで受けてきた差別偏見を声に出すことが、できるようになりました、それは決して国ではなく理解してくださる一般の方々や弁護士の方々の力添えがあるからです。
私達のように生き地獄を国から強いられ悲しい人生を歩む人々を作り出してはいけない!
今こそ国が真剣に動くべき、今までのように薄っぺらな冊子を配り、やりましたーと見せつけするのではなく、真剣に取り組み当事者に寄り添い耳を傾け、差別、偏見がどれだけ愚かなことか、人間形成のできる教育現場で、子供達、教育者に向かって伝え当事者の魂の叫びを聞いてもらい正しい啓発活動をすることが1番大事な事だと思います。
今、国が過ちを改め動かなければ、又繰り返す事になるでしょう、悪い歴史は改めなければならない、過ちを改めざる、これが一番の過ち。いつの日か顔と本名が皆様の前に出せるその日を願います。
改革無くして変化無し!
らい予防法を知っていますか? 無らい県運動とは何だか知っていますか? 原告番号169 東京都
らい予防法がどんな法律か知っていますか?
無らい県運動とは何だか知っていますか?
ハンセン病家族訴訟の判決が2年前に出た時、国は謝罪しましたが、国民のどれだけの人が2つのことばの意味を知ったでしょうか?
国民一人一人が、2つの言葉を学んで理解して欲しい。
今は、ハンセン病家族の一人として伝えたいメッセージはこれだけです。
「国はハンセン病への対応が遅かった! 希望 70代 男性 埼玉県
裁判はやらせられた感がある、リーダーシップはどこにあるのか。調整能力はないのでは?」
皆で自分事として考えよう 匿名 60代 沖縄県
私の場合、成人した辺りから『ハンセン病元患者の家族』の『偏見差別』を受けて来たと記憶している。その折々で『偏見差別』に反応したり抵抗したりすると『偏見差別』が増幅するのではないかと思い続けた。いつのまにか、対人関係で自分をリスペクト出来なくなっていた。しかしながら、『ハンセン病元患者の家族』に蓋して来た私を含めたきょうだい三人で『家族訴訟』に参加し『勝訴裁判』で得たものは【私をあまりにも身軽にしてくれた、、、目からうろこ状態】
それは『偏見差別』が蔓延る社会構造を黙認する人間の根底にある『卑しさ』『いい加減さ』が要因の一つと思えた。【属性】の二文字がそこ此処に横たわっていたと思う。それに背を向けて来た過日の自身を検証しつつ、反省しつつ声を大にして
『身を差し出してハンセン病にかかった訳ではない』
『身を差し出して新型コロナにかかった訳ではない』
【皆で自分事として考えよう!
【偏見差別のない社会にすべく一人ひとりがNOと言える勇気を出そう!】
【国はありとあらゆる方策を打ち出して『ハンセン病の偏見差別』の完全解消する責任がある!】
コロナ禍で感染の恐怖と偏見差別を実体験 女性 原告番号75
月日の経つのは早いもので、らい予防法違憲国倍訴訟勝利20周年、そして家族訴訟勝利2周年になりました。
振り返ると2001年5月11日は国賠訴訟の判決勝利の日ですが、その18年後の2019年5月11日のこの日は、私が初めて裁判所で、ハンセン病家族としての本人尋問を受けて国に対して謝って欲しいと訴えた特別な日になりました。
母は29歳の時に熊本県の恵楓園に収容されました、兄も小学生時に入所しております。生後7か月の乳児の妹は母を取られて1か月後に亡くなりました。私は発病こそなかったのですが、未感染児童ということなのでしょう、鹿児島の星塚敬愛園保育所に預けられていました。退所後は父子家庭で懸命に生きてきました。
私が裁判所に訴えたのは私の受けた人生被害です。「母を、兄を、妹を、そして親類縁者に与えた耐え難い長年に渡る苦痛への謝罪を、また地域の住民にも国は誤った判断のもとで、権力を持ってハンセン病の患者を療養所に追い込んでしまいました、だから国は、責任をもって、私達家族に、社会に、謝ってほしいと」訴えました。
裁判所での傍聴は全16回、非公開を除いて殆ど出席してきました。非公開の方を含め32名の原告が、各々が受けてきた被害を堂々と、しっかりと、また切々と訴えたのです。それが裁判所に伝わったのだと信じています。
傍聴の度に気が付いた事は、毎回大勢の支援の方が傍聴券を求めて並んで下さっている姿でした、法廷後の会合でも、支援して下さる方達が大勢いて下さっていることを改めて思い知り、力強い思いでいっぱいでした。そして、2019年6月28日の判決日を迎え マスコミ各社報道の通りに原告勝利となりましたが、この日を境に再び怒涛の闘いへの始まりでもありました。原告団、弁護団、回復者の方、支援団体の皆さま、マスコミ各社の後押しがあり、一致団結しての数々の行動への協力体制を得て勝利することが出来たのです。
各種の支援行動には、 国会議員への要請行動、各議員へのポスティング、原告団弁護団支援者合同決起集会、各政党のへのヒアリング、議員懇談会への出席、報告会への出席等々振り返ってみてもいつでも支援者の方達が、力強くそばにいて下さっていました。
首相官邸前でのサイレントアピールが心に残っています。これらの一つ一つの行動が11月15日の国会での全会一致での補償法成立に繋がっています。これでひっそりと暮らしてきたハンセン病家族の方達が救われることになりました。
首相官邸で、時の安倍首相が私達家族の手を取り「今まで辛い思いをさせました」としっかりと謝って下さいましたことを改めて皆さまに伝えます。
裁判がなかったらハンセン病のことは誰にも話すことはなかったと思います。ここで知り合えた貴重な人や経験を今後の活動につなげるのには、やはり人との繋がりが必要になってきます、偏見差別解消に向けた活動をしつつ、ハンセン病問題を風化させることなく、家族の立場からの思いを聞き取り、記録して次世代に残したいのです。
現在は新型コロナウィルスが日本中を、いや世界中を席捲しています、人々が、いまや感染の恐怖と偏見差別の様々な問題を「実体験」しているのではないでしょうか。これは私達家族が人の目を恐れ、息を殺して隠れて生きてきた100年前からの経験と似ていませんか?
現代の情報はあっという間に伝播します、「良き事も悪しき事も」です。コロナワクチン接種する人も希望しない人も、差別意識の洗礼を多少とも受けるのではと危惧しています。正しい情報の取捨選択の力を試されています。今こそ、偏見と差別とはいったい何かと、お一人お一人の胸に問いかけたいとおもいます。
国のかじ取りを、また今後の国の動静をしっかりと注視していきたいと思っています。
一人ひとりが自分事として考えて下さい 匿名 60代 女性沖縄県
補償金申請を未だに躊躇している『家族』がいる。
それは、『偏見差別』の根深さを意味している。思い出すだけで過呼吸を起こすと言う家族もいた。『家族』であることを堂々と言える『偏見差別』のない社会を切望する。
2年前の『勝訴裁判』は確かに一筋の光明をくれた。【国は謝罪をしたが政策的には未着手状態ではないか】【国は『偏見差別』の根絶までの責務を完徹すべきだ】併せて、国民一人ひとりの意識の持ち方で『勝訴裁判』が生かされる、、
一人ひとりが自分事として考えて下さい。『コロナ禍』の折、ハンセン病に学んで『偏見差別』を再燃させてはいけません!
【歴史に学ばねば!】
もう少し優しい世界が来れば良い 匿名 50代女性 埼玉県
今年53歳になる私には、今でも時折鮮明に思い出す記憶があります。
母に連れられて、幼い弟達の手を引いてバスに乗り山の麓まで行きそこから山の上の病院まで歩くのです。
当時、鹿児島県の離島に住んでいた私は、毎年夏休みになるとフェリーに乗って奄美大島の母方の祖父母の家へ遊びに行っていました。
そして、1日だけ「病院のじいちゃん」に会いにいくのです。
少し大きくなってからは、母の代わりに私が弟達を連れて「病院のじいちゃん」に会いに行っていました。「病院のじいちゃん」に会いに行く時は、必ず私達だけで行く事、叔父や叔母に送ってもらってもいけないし、他の人を連れて行っても駄目、もう誰に言われたかも記憶が定かではありませんがそれが暗黙の了解の様なものでした。
私が島から関東へ出て数年が経ち、結婚が決まった時に父方の親戚から「祖父が病気である事」そして、「その病名」を相手方には決して伝えてはいけないと言われました。
祖父は手足の10本の指も、耳も、唇の半分も、ありません、瞼もきちんと閉じる事はありません。でも、とても聡明で優しい人でした。幼い頃から祖父はその姿でしたし、病気でそうなったんだよと教えられていた私にとっては、何故祖父の存在を無かった事にしなければいけないのかという納得のいかない思いがうまれました。
病院の名前は「和光園」祖父の病名は「ハンセン病」です。
当時22歳で、まだ若かった私は祖父の存在を無かった事にする事にどうしても納得がいかず、母に相談したところ「貴女のしたい様にしなさい」との言葉をもらい彼に、私にはハンセン病患者の祖父がいますと話しをしました。
ふたりで和光園に挨拶にも行きましたが、直接会うのは無理であるとの祖父の意向を汲み、彼には外で待っていてもらい私だけが祖父に結婚の報告をしました。
そして、子供が産まれてからは帰省の度に幼い子供達を連れて会いに行きました。それから祖父は、一度も外に出る事無く和光園で亡くなりました。そして、私が50歳を過ぎた今、祖父だけでなく父もハンセン病患者であった事実を知りました。多分父はこの事実を私達子供には教える事無く墓まで持っていくつもりだったのでしょう。父は祖父と違って一見は健常者(私はこの言葉が少し苦手です)に見えます。黙っていれば私は一生気付くことが無かったでしょう。
何故「ハンセン病」である事をここまで隠さなければいけないのでしょう、自分の子供にさえも…。これこそがハンセン病患者がこれまで受けてきた「差別」と「偏見」の結果なのでしょうね。
私は未だに父がハンセン病患者であった事を夫に告げられていません。何故なら父がそれを望まないであろうと思っているからです。そして、それはとても辛くて悲しい事だとも思っています。
世の中から「差別」と「偏見」が無くなる事はないのかも知れません。でも、もう少し優しい世界が来れば良いのにと願わずにはいられません。
諦めずに声を挙げることの大切さ 匿名 70代女性 埼玉県
ハンセン病の国賠訴訟、家族訴訟、勝訴は様々な訴訟原告の方々への希望にもなっていると思います。
諦めずに声を挙げ続ける事の大切さを痛感しています。
「ハンセン病」という言葉に負い目のない社会を! 原告番号380番 50代 男性 埼玉県
「ハンセン病」という言葉に負い目の無い社会を実現させましょう。
ハンセン病の差別をどうすれば少なくなるのか 家族補償請求者(弁護士が代筆)80代 女性 東京都
私は、何か分からず、(6月27日の家族だけの集まりに)出席しましたが、まず、ハンセン病の差別をどうすれば少なくなるのかについて、少し考え方が行き違うのではないかと思いました。今の方向に合わせて、もう一つ加えたら良いと思います。
社会に訴えることが大切 原告番号98番(弁護士代筆)60代 男性 東京都
ハンセン病の歴史や経緯をもっと知り、社会に訴えることが大切だと思います。頑張ります。
コロナに役立って欲しい。同じ事を繰り返させない!!家族補償請求者(弁護士が代筆)70代 女性 東京都
コロナに役立って欲しい。
同じ事を繰り返させない!!
父はハンセン病でした Mさん 70代 埼玉県
ハンセン病家族訴訟勝訴から2年になる6月28日に、ハンセン病首都圏市民の会のサイレントデモがありました。この時、厚労省前と官邸
前で、Mさんが読んだアピールです。
私はこのハンセン病首都圏市民の会には入ったばかりですので、ハンセン病に対する知識は浅く活動経験などほとんどありません。しかしながら、この短い間にも知ったことは驚きの連続でした。
私自身の事を言えば、父はハンセン病元患者で、長い間療養所で生活をしていました。ただ、両親は私が物心付く前に離婚しており、私は父を知らず、親戚に預けられて子供時代を過ごしました。
母からは「父親は体の弱い人で、結核の療養所に出たり入ったりしていた人だ」と聞かされましたが、「あ〜、そうなんだ」と深く受け止めてはいませんでした。ただ、「絶対、父親を探してはいけない」と何度か言われたことがあります。特にテレビでご対面番組が盛んだった時には・・・。
71歳の私ですが、42歳になった時、本当に突然、父がどんな人なのか会ってみたいと思ったのです。当然、母に知られないよう探し始めたのですが、情報はあまりに少なく、けっこう大変でしたが、ついに居所を見つけることができました。
そして父がハンセン病であること、国立療養所に長期入所している事を知りました。その時、なぜ、あれほど強く「父を探すな」と言っていたのか初めて納得いきました。事実を話した結果、父の事で私が偏見、差別受けないよう、私だけでなく周りにも沈黙を貫いたのです。
ハンセン病だということで、本人はもとより、家族の皆さんがどれ程多くの偏見、差別を受けてきたか、いや、今も受けているか、活動を通して少しずつ分かってきました。
家族に感染者が出て、国に強制的に入所させられ、経済的に困窮することはもとより、村八分に遭い、親戚、友人から非難され、進学や就職ができず、さらに結婚が破談になったり、また、公になることで離婚させられたりすることもありました。
しかし、これらの偏見、差別は何千年の前の話だけではなく、今も続いていることに、えっ、今も!!?と、驚くしかありません。現在20代、30代の若者の中にもあるというのです。
この偏見、差別を大きく助長したのが、明治時代に制定された「らい予防法」であり、それによって患者さんは強制隔離され、家族が大変な被害に遭いました。さらにこの悪法が廃止されたのが1996年、たった25年しか経っていないということも驚きです。
そもそも、国は政策の誤りを認めました。時の総理も陳謝しました。TVで何度も映し出された場面を覚えておられる方も多いと思います。
偏見、差別は昔からありました。その原因は、ハンセン病が感染しにくい病気であることが広く知られていなかったこと、手足や顔の障害、何よりも人の心の奥底に根深く住みついている、人を差別したがる人権意識の低さ、さらに無関心もあるかもしれません。
あなたの心に、偏見・差別の根が住みついていませんか? ちょっと、ご自身の心に聞いてみてください。
そして、その根を助長させている政策には「No」の声をあげ続けましょう。
人は誰しも繰り返すことのできないただ一回だけの、一回こっきりの人生の中を生きています。この一回きりの人生、生きていて良かったと思える人生をあなたも、私も、そして皆さんも目指していきましょう。
その②「2周年アピール行動」に全国から寄せられた市民の声(2021年6月)
徳田靖之 70代 大分県
2年前の国会行動は、今思い返しても、劇的な日々でした。控訴の方針を固め、貝のように口を閉ざした官邸と厚労省の厚い壁を前にして、あらゆる可能性を探り、試行錯誤を繰り返す、文字通りもがきながらの行動でした。その厚い壁を突破することが出来たのは、何よりも、控訴を許さないという原告の皆さんの熱い思いと、ハンセン病問題の解決を自らの課題と位置付けてともにたたかってくださった市民の皆さんの粘り強い支えがあったからこそです。官邸前で歌い続けた「思いよ届け」は、今も、私の耳に鮮やかに残っています。歴史に残るあの行動の意義を噛みしめながら、偏見差別の解消をはじめとする残された課題の解決に全力で取り組んでいきます。
渡邊怜子 30代 東京都
家族訴訟から2年。今、コロナに翻弄され、目の前のことをただこなしている自分に疑問を持ち続ける日々です。判断に迷うとき、ハンセン病問題から学んだこと、皆さんが教えてくださったことを思い出しています。
村山千津子 60代 東京都
国による残酷・非道な強制隔離政策によって被害を受けた元患者とその家族の方々に対して、私たちは常に共にあり、ハンセン病に対する偏見や差別を許さないと声を上げ続けたいと思います。
Shinobu Miyashita 50代
皆さんの眼差しが優しさと安らぎに満ち、罪もない家族遺族の皆さんが、怯えや不安で心かき乱されない世の中であってほしいです。ハンセン病問題に関わる人々の目が優しさに満ちる日が必ず現実となりますように。
匿名 70代 女性 埼玉県
ハンセン病の国賠訴訟、家族訴訟、勝訴は様々な訴訟原告の方々への希望にもなっていると思います。
諦めずに声を挙げ続ける事の大切さを痛感しています。
河上千鶴子 60代 富山県
私は、富山でハンセン病問題に関わっている者です。昨年3月の終わりに、初めてコロナ感染者が出た時に昔のハンセン病発生時と同じ、当事者・家族に対して偏見と差別対応がありました。家族の皆さんの痛み苦しみが蘇ったような思いでず。頑張ってください。
八重樫信之 70代 埼玉県
「親はハンセン病でした」と普通に言える社会になって欲しい。
松村徳子 50代 奈良県
ハンセン病のことをきちんと知らなかった、知ろうとしなかった私自身が、ハンセン病や、回復者、家族のみなさんへの差別や偏見を「支えて」きたのだと思います。今からでも、みなさんから本当のことを学び続け、次世代に伝えていきます。
伊東郁乃 60代 静岡県
家族裁判によって「厚労省だけではなく文科省・法務省も一体となって取り組む」ということが決まりました。あれから二年。私の県で、市で、町で、一体どれほどのことが進んだのだろうか。コロナ禍であることを取り組まない理由にして欲しくない。
橘優子 60代 東京都
ハンセン病差別を許さない啓蒙の施策を充実させることと共に、ハンセン病冤罪菊池事件の再審請求を支援していきたい
岡村やよい 60代 東京都
長い長い苦しみの中から、声をあげていただいた人に感謝です。これからも根深い差別の問題はいろいろなかたちで起こってくるのでしょう。少しでも、そのような社会がかわるように、一緒に考えていきたいと思います。
KIO 70代 男性 兵庫県
日本国民でありながら、自分の名前を書けない、名乗れないのは、人間無視である。
政府や地方自治体は、恥を知れ。その前に、ハンセン病で苦しむご本人そして家族に、膝をかがめて誤り、回心せよ!そして必要な補償を、尽せ!
星野裕子 60代 東京都
勝訴から2年目を迎え、取り巻く社会は変わっただろうか?オープンに家族であったことが話せたり、ぬぐい切れないほどの偏見差別を受けたことが話せたりの社会になっただろうか?事実を訴え、偏見差別の恐ろしさを伝えよう。
酒井義一 60代 東京都
家族の方の声をきちんと聞きながら、堂々と「共に生きる」と言える社会と自分でありたい、と痛切に思う。
田口弥一 60代 静岡県
家族訴訟の勝訴が確定してなお,補償請求がなかなか進んでいないことは,まだ社会が共生の場になっていないことの表れだと思います。微力ではありますが,そのような社会に向けて努めたいと考えています。
後藤泉稀 20代 東京都
ハンセン病家族被害に、この問題の根深さや複雑さが凝縮されていると思います。私も一緒にすべての人が生きづらさを抱えず生活できる社会をつくります。
匿名希望 30代 男性 東京都
補償請求をしないという選択をした家族の存在に、国と私たちの社会は家族に対して取り返しのつかないことをしてしまったと感じます。これからもこの問題に関心を持ち続け、少しでもやるべきことをやっていきたいと思います。
藤田 越子(風を紡ぐ会) 60代 東京都
私たちは忘れてはならない。「強制隔離」という国の誤った政策によって、未来を奪われてしまった人たちがいることを。裁判に訴えたご家族の勇気に敬意を表します。思いを重ね、偏見や差別に共に立ち向かいましょう!
稲葉耕一 70代 奈良県
コロナ禍ゆえ、感染症のハンセン病で隔離差別され闘ってきた、ハンセン病回復者の思いを受けとめ、交流をつくって、啓発を進めましょう。特に今、菊池事件の再審へ、Fさんの無罪を勝ち取る、ハンセン病差別を告発する、憲法をまもるため、さしあたり再審署名を共に頑張りましょう。
内藤雅義 70代 東京都
ハンセン病は、町の医療機関の外来で治療できる普通の病気です。国辱の怖い病気として排除の対象とされたために治療が遅れて障害が悪化し、より怖い病気とみられました。ハンセン病はもちろん、あらゆる病気は、早期に安心して治療を受けられるようにすることが重要です。家族の皆さんの声が、医療専門家と国の政策、そして、それをすり込まれた私たちの社会の構成員の認識と行動の間違いの重大さを明らかにしてくれました。
福西由紀子 60代 奈良県
年老いてなお、自分のご兄弟が療養所におられることを、夫や子どもさんに話ができないご家族の苦悩を直接伺い、私たちの無関心がハンセン病への偏見を生み、ご家族を苦しめてきたこと、苦しめていることを実感しました。
磐井静江 60代 東京都
私が学校で学ぶ機会がなかったハンセン病のことを知る機会を得たのは25年前でした。ハンセン病回復者やご家族から機会あるごとに私は、人間にとって必要不可欠なことを学ばせていただいています。自らの偏見・差別を問い直す機会を与えていただき、政策の間違いによって多くの人が犠牲になることを身に染みて感じ取ることができました。感謝です。 家族訴訟判決2年を前に私のようなチャンスを得て孫子には、生きやすい世の中を作っていきませんか?
松下徳二(共に歩む会) 鹿児島県
家族に一人ハンセン病患者が出たために一家全員服毒自殺。患者だと言われたその日に息子が父を射殺して自分も自殺。当時、大きく報じられたはずだが、国はなぜ何の方策も取らなかったのか。疑問と怒りが消えません。
関口和幸 70代 東京都
訴訟に参加されたご家族の声に胸がつぶれる思いです。東京北区で差別根絶に向け力を尽くします。
浄真寺 前田義朗 60代 千葉県
歴史の闇に埋もれさせない、家族提訴の会の皆様の活動に頭が下がる思いです、またこれからの活動が盛会でありますことを念じます。
大島了 40代 栃木県
家族がいなければよかったという思いを抱かせてしまった社会を変えていくには、国の力がまだまだ必要です。応援よろしくお願いいたします。
ハンセン病家族訴訟原告の皆さま
共に闘った市民の皆さま
もう2年になるのですね。そして、同時に“まだ2年”とも感じます。
私たち「ハンセン病問題を共に学び共に闘う全国市民の会」は、このハンセン病家族訴訟の活動の中から生まれ、育てていただいた会です。「共に 闘った」と初めに書きましたが、さて、本当に私たちは「 闘って」きたのかと自問すれば、甚だ心もとない。しかし、「あの時私たちはそこにいた。皆さんと共にあったのだ」という思いは、決して大げさではなく、私たちが活動する力の素になっています。
ハンセン病問題は、家族補償金の問題、教育・啓発の問題など、まだまだ「解決を見た」とは言い難い、むしろ、これからなのだという状況です。
どうかこの度の2周年の集いを機に、私たちはここを退くまいとの思いを共にして、今後、共に生きる社会を築くよう力を合わせていきたいと願っています。
家族原告の皆さんの願いは、私たち市民の願いでもあります。そうでなければならないと思います。
次は菊池再審! どうぞ今後ともよろしくお願いします。
ハンセン病問題を共に学び共に う全国市民の会
会長 太田 明夫・会員一同
浜﨑眞実 50代 神奈川県
被害を無かったこと、或いはあべこべに加害者と思い込まされる仕組みが社会にあることを明らかにしたのは家族原告でした。被害を被害として語ることのできるように、間違いを共有する場を作るのは国の責任でしょう。
ハンセン病回復者と北海道をむすぶ会 浅川身奈栄 50代 北海道
ハンセン病回復者の方々から「家族が村八分に会い離散した、破談となった、自殺した」等の体験を何度も聞きました。そのご家族の方々がもう辛い思いをしなくても済むように私も一市民として共に歩んで行きたいです。
井上昌和 50代 北海道
ハンセン病問題は、過去の問題ではなく今、まさに各個人・国に突き付けられている問題だとコロナ禍において感じる。ハンセン病回復者だけでなく、家族が背負った課題を理解し、解決していく姿勢が問われている。
大井 呑む 60代 男性 神奈川
家族原告の訴えを聞いた裁判所は、偏見差別は社会構造としてあることを言い渡しました。その解体のため、たとえ世話になり、面倒をみてもらっていても、嫌なこと、オカシイことには嫌だと言える社会を目指したい。
長谷川りゑ子 60代 東京
家族の皆さんと話せることがうれしいです。いま過去の国の施策を見つめ直します。三省(厚労省、法務省、文科省)はドラマ制作をしてテレビ放送して、国民に広めてください。
野里子 70代 東京
国は謝罪しましたが、ほんとうに反省しているでしょうか。
具体的な行政の中で、差別されている方々の痛みを真摯に受け取っていただきたい。
桶谷 努 50代 東京都
家族訴訟の勝利判決から2年が経過してもなお、家族であることを名乗ることができない方が大半である現実を直視し、ハンセン病問題の抜本解決のための取り組みを絶やすことなく繋いでいきたいと思います。
その③ ハンセン病家族訴訟控訴取下げ(2019年)の時に作られた手書きのメッセージ
2019年7月5日
【ハンセン病家族訴訟・匿名原告さんのメッセージ】
7月2日の判決報告集会での190番さんの発言について,ご本人の許可をいただき,肉声をシェアさせていただきます。
こんばんは。福岡からまいりました。よろしくお願いします。
今日はじめて、こういう場所に来させていただいたんですけども、いま、こちら側〔の撮影禁止ゾーン〕にいます。[涙ぐみながら]ごめんなさい。なぜかと言うと、まだ親も生きています、母親が。きょうだいもいます。私一人だったら、全然、顔を出していいです。名前、出していいです。ほんとに、でも、まだ親やきょうだいが〔生きて〕いるので、〔名前と顔を〕出せないことが、とても悔しいし。端(はじ)にいることが、残念です。
わたしが生まれたとき、もう、父は病気でした。だから、学校に行っても、それが差別ってわからないけども、誰も相手にしてくれないし、教育者である先生が筆頭になって、無視されてきました。だから、人として扱われていないということが当たり前だったんです。それがずっと、中学校卒業するまで続いて。
高校になったら、地元を離れて、地元以外の友達ができました。したら、やっと、人として、普通の友達ができて。でも、やっぱり、父のことは話せないんですね。人として扱われない自分が、また蘇(よみがえ)ることがトラウマだったんで、やっぱり話せなかった。〔でも〕そのなにも知らない友達とはいろんなことが話せたし、人としての会話ができるようになりました。
で、やっぱり、いままで、ほんとに、なんか、ずっと自分の中では封印し〔ておき〕たかったその頃のこととか、地元の地名とか、あったんですけど、このあいだ初めて取材を受けて、地元の名前を久しぶりに聞いたときに、ゾッとしました。ああら、やっぱり、自分の中にはまだまだ、そういう、トラウマみたいなところが残っているんだなぁと思いました。
いま、わたしはなにもできませんが、ただただ、いまの現代の人に、じゃ、なんの責任があるのって言われたら、わからないけど、父がその病気と言われたとき、そういう国の愚かな政策で、差別することを言われたときに、普通の人たちは、やっぱり、国の言うことを聞きますよ。菌があるんだもん。ウツルんだもん。「排除しましょうよ」って言われたら、なにも知らない普通の人たちは、「あっ、国が言うんだったら、そうだよ」って。「じゃ、隔離しないといけない」って。「自分たちもウツル。子どもにもうつったら、大変。じゃ、隔離をしなきゃいけない」って。国が言うんだったら、普通の人はそうなると思います。だから、その普通の人たちは、自分たちでそれを思い立って、うちの父とか、みなさんのお父さん、お母さん、子どもたちを隔離したわけじゃないと思うんです。国の政策によって、それをしなきゃいけなかった。だから、その思いはわかるんですけど。でも、やっぱり、国の間違った判断でそうされた私たちは、まだ生きているんです。そして、こうやって顔も出せない、名前も出せない状況があるっていうことを、みなさんにわかってほしいし。これが誰の判断でこうなったかというのも、やっぱり、わかっていただけたら有難いなと思います。
で、自分がこの世に生まれた使命があるならば、父が悔しかった思いを、たった1人の誰かでもいい、わかっていただけたらと思うし。もう一度生まれ変われるなら、病気の父の許に生まれ変わり、一緒に父と闘ってあげたいです。(拍手)
子どもとして、なにもしてあげられなかった父に、謝りたいです。曲がった手を握りしめたいです。うちの父は病気で、曲がっていました、指が。でも、その手で、頭を撫(な)でてくれたんです。抱きしめてくれた。どうして恨むことができましょうか。だから、やっぱり、いま大人になって思うことは、もう一度、父の許に生まれ変わりたい。一緒に闘ってあげたいなぁって、思います。まだまだこれから、やっぱり、名前は出せないかもしれないけど、みなさんと出会えたことに感謝します。応援してくださったみなさんに、そして、この場に来させていただいたみなさんに、感謝します。自分の使命がここにあるならば、全(まっと)うしたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
2019年7月6日②
この原告さんは、去年の3月に本人尋問に立たれ、裁判官の前でご自身の壮絶な人生を証言しました。
父がハンセン病療養所に収容された後の地域の差別は凄まじく、学校の先生にもいじめられ、小学校3年生で学校に行けなくなったこと。小学校4年生のときから働いて家計を支え、母に「死のう」と言われたとき、「自分のことは自分でやるから生きよう」と伝えたこと。
そんな母が病で亡くなってからは「男になって生きる」と口紅一本塗らずに現在まで生きてきたこと。
添付の写真の肉筆を見ていると、「私の青春を返せ」という原告さんの声が聞こえてくるようです。
2019年7月3日「記者会見」@東京地方裁判所内司法記者クラブ
原告番号3番(80代女性、関西から上京)
私の一生と青春を返せ
原告番号3番 関西在住 80代 女性
私の父がハンセン病になり岡山の療養所に入ることになりました。それからというもの村八分にされ毎日、毎日なき暮らしでした。
父がいなくなったころから、母親も病気になり働き手のない家は火の車となり、親の残した家を売り土地を売りその金で毎日やっと暮らしてました。
そして27年12月19日母親までもが死んでしまいました。
残った姉妹二人きりになり私が18歳妹が14歳、どうすることもできずただ泣くばかりでした。この病気のため学校にもいけず苦しい毎日が続いた。字を書くことも読むこともできずこれもみな差別のせいだと思います。
私の一生と青春を返せと。おおごえでさけびたい。
2019年7月7日③
本日のメッセージは東日本在住の40代の原告さんからです。子どもたちがハンセン病のことで辛い思いをしない世の中になってほしいと提訴を決意されたそうです。
今回メッセージの公開にあたり、「控訴阻止の運動で役立つなら匿名で活用してもらって大丈夫です!みんなの気持ちでもあると思うのでよろしくお願いします!」と、決断をしてくださいました。
より良い社会をつくるために一人一人ができること。
まずは、控訴阻止!あるのみ、です。
2019年7月8日④
今日のメッセージは、関東在住のまだ20代の原告さんのものです。
関東で定期的に行なっていた裁判の報告会に何度か参加されていましたが、参加者の中でとびきり若く、心細そうな顔で座っていらっしゃったのが思い出されます。
「この裁判が原告の勝利で終わることで自分の気持ちと決別できることを信じて」
この言葉に込められた想いの重み、10日、首相官邸に届けられますように。
2019年7月8日⑤
このメッセージは、関東在住の80代の原告さんからです。担当弁護士が、このメッセージを公開していいか原告さんに電話をかけて聞いたときに、電話口から、嗚咽が聞こえてきたそうです。
原告さんたちは、蓋をしたいつらい過去の傷を抉り出すようにして、この裁判を闘ってきました。裁判官の前で、心から血を流しながら、必死の思いで隠してきた秘密を、忘れようとしていた過去を、叫んできたのです。
「このような思いをして来た私達に、国はぜひあやまってほしいです。お願いします。どうかお願いします。
2019年7月9日⑥
今日のメッセージの原告さんは関東在住の30代の女性です。
自分には関係のないことと思っていたハンセン病問題。父がハンセン病だったと知った途端に離婚という形で降りかかってきました。
この同世代の女性からの大切な大切なメッセージ。差別の問題は誰もが最悪な形で当事者になりうるのだという怖さ・怒りを感じます。